永禄4年 1561年 (0歳)
 後の井伊直政、この世に生誕する。
永禄5年 1562年 (2歳)
 父、直親(なおちか)は今川氏真に叛心を見抜かれて討ち取られる。その後、直政は井伊家の老臣に守られて諸国を流浪し、その後、遠州の古寺へ潜み勉学に励む。
天正3年 1575年 (15歳)
2月15日  浜松城下の八幡宮の前で、徳川家康の目にとまり、家康に仕えることになる。
天正6年 1576年 (16歳)
 遠江国の芝原で武田勝頼で戦う。これが初陣となる。
天正10年 1582年 (22歳)
10月29日  徳川家と北条家との休戦交渉を担当して、和議を成立させている。この頃より井伊兵部少輔直政を名乗る。
天正13年 1585年 (25歳)
 宮廷から正式に従五位下侍従に任官する。
天正18年 1590年 (30歳)
6月22日  小田原攻めの最中、小田原城の篠曲輪(ささくるわ)に夜襲をかける。
 主君徳川家康の関東移封に伴い、上野国(こうずけのくに)12万石を与えられ、箕輪(みのわ)城の城主となる。この時、徳川家臣団の中で最高の禄高を得る。
文禄元年 1592年 (32歳)
 直政の娘が徳川家康の4男忠吉に嫁ぐ。直政の娘8歳。忠吉14歳。
慶長3年 1598年 (38歳)
 主君徳川家康の命により、箕輪から、和田に居城を移すことになる。また、和田という地名を高崎と改名する
慶長5年 1600年 (40歳)
9月15日  関ヶ原の戦いで、娘婿の松平忠吉を連れて前線視察と称して、先陣を務める福島正則隊よりも前に出て、開戦の火ぶたを切った。このことにより「徳川が先陣を切る。」という武勇を示した。
 また、関ヶ原の戦い終盤に敵中突破で家康本陣をかすめて撤退する島津軍を追撃して、壮絶な戦いを展開している。この時、受けた傷が原因で直政、忠吉は寿命を短くしている。
慶長7年 1602年 (42歳)
2月  関ヶ原の合戦で島津軍から受けた鉄砲傷が元で死去。享年42歳。
 直政の死を徳川家康はいたく悲しみ、惜しんだといわれる。
井伊直政、関係年表
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