大久保 猪之助 おおくぼ いのすけ  関ヶ原の合戦の折、徳川軍が小早川陣に威嚇射撃を行った際、東軍に加担の伝令に走る。
管 忠利 かん ただとし  六之助。和泉守。朝鮮の役では太刀で虎を斬った程の剛の者。
関ヶ原の戦いにおいて、鉄砲隊を率いて、島左近勢を側面から一斉射撃を行い、島左近に致命傷を負わせる。
栗山 利安 くりやま としやす  善助(幼名)。四郎右衛門。備後守。15歳の頃より官兵衛に出仕。黒田家筆頭家老となる。
黒田 官兵衛 くろだ かんべい  豊臣秀吉を天下人にした天才軍師。しかし、その才知は天下統一を果たした秀吉の目には、あまりにも危険に映った。そのため、秀吉の天下統一に抜群の功労があったにも関わらず、恩賞は豊前中津12万石しかなかった。
 しかし、それでも関ヶ原の戦いの時は、九州を平定して天下を窺おうとしている。
黒田 長政 くろだ ながまさ   幼名、松寿丸。黒田孝高の長男。姫路に生まれたが、父孝高が秀吉に属したため、織田信長への人質として、幼少期を秀吉の居城長浜城で暮らす。1582年(天正10年)はじめて秀吉の中国征伐に従軍する。その後、秀吉の下で賤ヶ岳の戦いをはじめ数々の武功を挙げる。しかし、関ヶ原の戦いでは徳川家康方につき、その武功により筑前国52万3千石を賜り、福岡を居城とした。1623年(元和9年)京都で死去。享年56歳。
黒田 職隆 くろだ もとたか  兵庫助(ひょうごのすけ)。官兵衛の父。元の名を満隆(みつたか)と称する。しかし、当時の主小寺政職(おでら まさもと)の養女(明石城主 明石正風の娘:官兵衛の母)を娶って、「政職」の一字をもらい、職隆と名乗る。
後藤 基次 ごとう もとつぐ  又兵衛(またべい)。黒田家臣団の中で母里太兵衛と共に代表される武将。しかし、長政に家督が渡ってからは長政とは折り合いが悪く、黒田家を出奔する。他の大名から誘いの言葉がたくさんあったが、かつての主君長政が又兵衛を召抱えてはいけないという沙汰がでたため、浪人となる。
 その後、大坂の陣が勃発したとき、浪人として、冬、夏の陣に参戦するも、夏の陣で討死をしている。
母里 太兵衛 もり たへえ  万助(幼名)。後藤又兵衛と並び称される剛の者。「酒は呑め呑め、呑むならば・・・」の黒田節の伝承を残した人物。
吉田 長利 よしだ ながとし  六郎太夫。黒田の家中では、最も土木工事が詳しく、高松城の水攻めの奉行を務めた。
黒田軍団
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