天正大判が洛中に出回ったある日、伊達政宗が諸侯の集まる中、天正大判を見せびらかし、諸侯はそれを手にして皆で見せ合った。その諸侯の中にも景勝、兼続もいたのだが、天正大判が兼続のところに回ってくると、兼続は突如、扇子を開き、扇子の上でポンポンとお手玉のように浮かした。
それを見た政宗は兼続は陪臣であるから、遠慮して手にとって見ないのだな?と思い、
「遠慮はいらないから、手にとって見よ。」というので、
兼続は「かたじけない。しかし、私の手は軍配を握る手で、誰の手に渡らぬかわからない、このような不浄な物にどうして手が触れられましょうか。」と答えたという。
これに対して、政宗は苦笑いして、「御意のままに。」と答えるしかなかったという。
これは、兼続が金銀を粗末に扱っているということではなく、兼続も一国の国政を預かっているものだから、金銀の大切さはわかっている。では、なぜ、このような態度に出たかというと、天下の「伊達者」がそのようなことで、ハシャギなさるなということを態度で示しただけであったのだった。
小田原攻めの陣中、豊臣秀吉は人物評価のために石垣山の本陣で宴をしばしば、開いていた。他の諸侯に漏れることなく、兼続も呼ばれ、秀吉に
「山城守ならば、小田原城をどう、攻めるか?」
と問われる。すると、兼続は秀吉の意のままにスラスラと答えたという。
兼続の答えを聞いて、秀吉は
「そちに二十万の大軍を預け、高見の見物をしたいものよ。」と言わさせ、時服と佩刀を与えた。
天下人秀吉の前で、臆することなく、自分の意見を言える程の胆力、天下人秀吉の意に適う意見をズバリ言い当てる才に秀吉は、大満足したに違いない。
上杉家家臣の横田式部が、茶坊主を無礼打ちにした。それに怒った、茶坊主の遺族は兼続に詰め寄った。これに対して、兼続は「銀七十枚で、納得せよ」
という。しかし、遺族は「銀を七十枚だろうが、七百枚つまれようが、納得せぬ。死んだ者を生きて、返せ!!」
詰め寄る。そこで、兼続はサラサラっと手紙を書き、
「もう一度、問う。この訴訟を起こした張本人は誰だ?」
そこで、張本人である人物が、我こそはという不適な笑みを浮かべて立ち上がった。そこで兼続は
「兼続がいかような裁決をくだそうにも、その方達は納得すまい。こうなってしまった以上、死んだ者を生き返らせるしか方法はないようだ。今、閻魔大王に手紙を書いたので、その方たちがこの手紙を閻魔大王に見せて、死んだ者を連れて帰ってきて欲しい。」と言い、張本人を斬首したという。
こういったこじれた問題も、うまくまとめる兼続は、国政でも、十分に力を発揮したに違いないということは想像に難くない。
上杉景勝が越後から会津へ国替えとなったとき、上杉家のあとに入ったのが、堀秀治。しかし、秀治は新領地に着任して、いきなり窮地に立たされる。それもそのはず、米倉が空になっていたのだ。通常、国替えがあったときは1年の半分の年貢米を新領主のために残しておくのだが、兼続の命により、1年分の年貢米を会津へ持っていったのだ。この状態では困るということで、秀治は早速、半年分の返還を申し入れるが、兼続は「会津の旧領主の蒲生氏も1年分を持ち去ったので、返せない」という。そこで、困ったのは、秀治。しかたなく、新潟代官の河村彦左衛門から米を借りて急場をしのぐが、この彦左衛門、実は上杉旧家臣。兼続は彦左衛門から秀治の借用書を買収して、しつこく催促したというのだから、たまらない。
さらには、百姓が勝手に引越しできないように各国で登録してあるにも関わらず、登録してある百姓まで連れて行き、上杉旧家臣の浪人を越後に置いていき、兼続はたびたび一揆を起こさせたのだから、新領主の秀治はたまらない。
こうまでして、徹底した嫌がらせは秀治が領地経営に失敗して、上杉家の越後復帰を考えてのことや、秀治を越後に釘付けにしておくとも言われているが、これは、少々度が過ぎているのでは?と思ってしまう。
しかし、秀治にも報われるときが来る。上杉氏の軍事強化の情報を入手し、それを徳川家康に密告して上杉討伐の口実を与えてしまうのである。
徳川家康の会津征伐の折に、景勝を裏切って家康の元へ走った藤田信吉という家臣がいた。家康は藤田信吉から、上杉家の軍略、戦法等をいろいろと聞き出した。そして、最後に家康は信吉に
「山城(兼続)は一口でもって言えば、どのような男だ」と問うた。
すると、信吉は
「山城が主で中納言(景勝)が従でしたら、天下は山城に落ちていたかも知れません」と答えたという。
この言葉からいくと、まるで景勝が凡庸な将に聞こえるが、決してそうでない。景勝も謙信の後継者争いに勝って、五大老に列せられる程の名将である。ただ、兼続があまりに素晴らしいため、景勝の影が薄くなっているだけである。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦が行われたとき、徳川軍が本来攻めようとしていた上杉家は領国会津から北上して最上家の長谷堂城を攻めていた。しかし、折りも折西軍惨敗の報が上杉陣営にもたらされる。やむなく撤退を覚悟するも、上杉軍が陣を布いている場所は狭く、大軍を無傷で撤退させるのは困難を極めた。しかし、兼続が殿を務めることで、整然とした撤退戦を敢行することができ、上杉軍はほぼ無傷で領国に帰ることができた。この撤退戦は旧日本軍参謀本部の「日本戦史」で取りあげられている程見事なものであったという。