9.ご案内
見所  三大山城の一つとあり、標高717mの頂上に本丸が築かれている。出丸まで車で登城することができるが、時間がある場合は歩いて登城するのも良い。途中、追手門跡、土岐門跡などあり見どころスポットはある。本丸に上がったら6段の石垣は見応え十分なので、是非見ておきたい。また、本丸埋門跡、長局埋門跡などの石垣も圧巻である。そのほかには出丸から見た本丸の石垣、麓の太鼓櫓付近などもお勧めです。
入城料 城跡へは無料
歴史資料館は小中:200円、大人400円
開城時間 城跡は常時開放
歴史資料館は4〜11月はAM9:00〜PM5:00、12月〜3月はAM9:30〜PM4:00まで
休城日 城跡は常時開放
歴史資料館は月曜、年末年始(12月29日〜1月1日)休館
アクセス 鉄道 JR中央本線、恵那駅乗換、明智鉄道、岩村駅下車、徒歩10分。
中央自動車道恵那IC 〜国道19号〜国道257号
麓の復元された太鼓櫓、歴史資料館前に無料駐車場(30台)有り。山頂では本丸下の出丸に無料駐車場(20台)有り。
地図
公式サイト
岩村城

 今日はいつもと違うメンバーで城巡りに行った。天候は城巡りにこの上ない晴天だった。今回の城巡りの目的として、城巡りもさることながら、城下町も堪能するという目的があったので、目的地周辺について、恐らくそのまま進むと本丸近くにいく道に着いたが、まずは昼飯をとるということで城下町へ向かった。車を停めるような場所はなかったので、いろいろ探したが、資料館の駐車場が広くて無料だったので、そこへ停めて城下町へ向かうことにした。
 城下町はそのままの姿が残っており、県の文化財になっていることもあり、こじんまりとしているが、情緒あふれる建物が並んでいた。さて、昼ごはんということでいろいろ探してみたが、城巡りメンバーの一人が事前にインターネットで調べていて『ゆい』という蕎麦屋に向かうこととした。着いたと思ったら、食べる場所は建物の中を通り過ぎたところにあるということで、早速案内通り中に入ってみる蕎麦屋に到着した。中はそんなに広くなかったが、地元の女性達が手打ちにした蕎麦を頂ける店である。有名人も結構ロケできているような店であった。
 蕎麦もおいしく頂き、早速登城口から城攻めに向かった。序盤はアスファルトの道で結構急な道であったため、照り返しが暑かった。しばらくすると、実践女子大学の創立者下村歌子氏の勉学所、銅像があった。この岩村町には偉人を結構輩出しているようで十傑という銅像もあった。さらに進むと地面も石畳から土の坂道になっていた。
最初は来るものを拒むように急な坂道であったが、一の門を過ぎると坂もだんだん緩やかになっていた。山城なので、土の城かと思いきや結構石垣があり、このような山によくこれだけ石を運び上げたなと感心するほど石垣が組んであった。上がれば上がるほど、この城を攻めた秋山信友が力攻めを辞めて女城主を取り込んだ理由がわかるような城であった。しかも本丸に近づくと見どころである六段の石垣がある。攻めてきた敵もこの石垣を見たら、あまりの堅固さで諦めたくなるような威容さである。この石垣を攻め上がるとようやく本丸に到着する。頂上からの景色は標高717mあることだけあり、絶景である。建物は何一つ残っていないが、石垣、郭が十分残っているので、見応えは十分である。あと、頂上には岩村城の歴史を放送してくれる機械があるが、壊れているようでお金を入れても動かないようなので、注意した方がよい。

10.感想
平成23年8月12日(金)   晴れ

本丸にある六段の石垣

三大山城の一つ

 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、源頼朝の挙兵に従い、軍功のあった加藤景廉がこの地を与えられ、その子景朝が築城したのが始まりと伝えられる。築城年に至っては1185年(文治元年)、1195年(建久6年)の2説がある。
 戦国期に入って、西の大垣、東の岩村と称されるように軍事上重要な拠点となり、武田信玄高遠城秋山信友に命じて岩村城を攻めさせる。岩村城主遠山景任はこれを受け、織田信長の救援を受け、秋山勢を敗退させている。。1571年(元亀2年)景任が病没すると、景任に子供がなかったので、信長は5男の坊丸(後の勝長)を遠山の養子とし、景任夫人おつやの方を女城主とした。1572年(元亀3年)景任の死を知った信友は再び岩村城を攻めるも、なかなか攻め落とすことができず、和議が成立した。岩村城の落城に危機を覚えた信長はすぐさま、付近の豪族に奪い返すよう指示を出したが、秋山勢の前に敗退している。
 1575年(天正3年)長篠の戦いで敗れた武田勢に追い打ちをかけるように信長は岩村城に攻撃を仕掛ける。5か月に及ぶ戦いの中、ようやく城兵の命を助けるという約束の下、開城することとなった。しかし、信長は自分の叔母を取り込み城を乗っ取ったことに対して信友夫妻に非常に憎悪を抱いていたため、信友夫妻5名を長良川の河原で逆さ磔の刑に処した。その後、信長河尻秀隆を岩村城に入れ、秀隆が大改修を行っている。このとき、現在に伝えられる城郭に近い姿となった。秀隆甲斐国に移封になった後は森長可が入り、長可死後は森忠政が入る。このとき城代として入った家老各務元正が現在に伝えられる城郭を完成させた。忠政信濃国松代へ移封になると、変わって田丸直昌が入城。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍についた田丸氏が改易させられると、松平家乗が入城。このとき、城下町が整備される。その後、丹羽氏、松平氏が入り明治維新を迎える。

7.簡単な沿革
6.遺構
5.築城年

1185年(文治元年)

2.所在地

岐阜県恵那市岩村町城山

石垣

3.城の種別

山城

4.築城者

加藤景廉

1.別名
遠山城、霧ヶ城
年代 歴代城主
1571年(元亀2年) 遠山景任  1185年(文治元年)もしくは1195年(建久6年)にこの地を与えられた加藤景廉の息子景朝が築城したのが始まりと言われる。
 1570年(元亀元年)武田信玄の命により高遠城秋山信友が岩村城に侵攻。遠山景任織田信長の救援を受け、秋山勢を敗退させる。 
1571年(元亀2年)
1572年(元亀3年)
遠山坊丸  1571年(元亀2年)遠山景任が病没すると、織田信長の5男である養子坊丸が家督を継ぐ。坊丸が幼年だったため、実質上の采配は景任夫人おつやの方が振るう。これにより女城主が誕生する。
1572年(元亀3年)
1575年(天正3年)
秋山信友  1572年(元亀3年)秋山信友は城主景任が病没したのを知ると、岩村城を再び攻めるが、なかなか落城させることができず、おつやの方に婿養子として結婚することを条件に和議を申し入れ、受諾される。秋山信友は岩村城を乗っ取ることに成功する。
 織田信長は岩村城が落城したことを重くみて、すぐに奪い返すよう兵を起こすが、秋山勢に敗退させられている。
1575年(天正3年)
1582年(天正10年)
河尻秀隆  1575年(天正3年)長篠の戦いにより武田勢に大勝した織田勢は岩村城を攻略する。約5カ月に及ぶ戦いの末、城兵の命を保証するという形で開城するも、秋山信友夫妻5名が長良川河原で逆さ磔の刑に処せられる。
 織田氏の支配下になり、河尻秀隆が岩村城に入りこの地を治める。このときに現在の姿に近いところまで大改修される。
1582年(天正10年) 団忠正  1582年(天正10年)3月頃武田氏が滅ぶと、甲斐国河尻秀隆が移封され、替って団忠正が同地を与えられる。
1582年(天正10年)
1584年(天正12年)
森長可  1582年(天正10年)6月に本能寺の変がおこり、団忠正は京二条城にて織田信忠と共に討死する。
 森長可信濃国から引き上げる際に、岩村城にそのまま入城。
1584年(天正12年)
1600年(慶長5年)
森忠政  1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いにおいて、長可が討死すると、家督を忠政が継ぐ。
1600年(慶長5年) 田丸直昌  1600年(慶長5年)2月かねてより希望していた信濃国へ移封がまとまり、森忠政信濃国へ移封となる。替って田丸直昌が入れ替わる形で信濃国から移封される。
 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにより西軍についた田丸直昌は改易され、替って松平家乗が入城する。このときに城下町が整備される。その後、丹羽氏(岩崎城主の子孫)、松平氏が入城し明治維新を迎える。
8.歴代城主
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