ト音
武将名 武将名(ひらがな) 概略 関連ページ
藤堂 高次 とうどう たかつぐ  大学頭(だいがくのかみ)。高虎の嫡子。
藤堂 高虎 とうどう たかとら  初め、浅井家に仕えており、姉川の合戦等で武功を挙げるも、主君長政に物足りなさを感じ、主君を替え続けた。豊臣秀長に出会い、秀長に仕えてようやく、日の目を見ることができる。
 しかし、自分の人生を変えてくれた男、秀長死後は徳川家康という人物に目をつけながらも、豊臣秀吉に仕えることになる。秀吉死後は家康派をより一層家康と親密になる。
 また、高虎は築城技術に定評があり、中でも縄張りには群を抜いていたので、家康から江戸城の縄張りなど命ぜられるぐらいに、家康の信頼を勝ち取り、晩年は外様大名ながらも、幕府から一目置かれる存在になった。享年75歳。
藤堂 高吉 とうどう たかよし  高虎の養子。実父は丹羽長秀。はじめ、豊臣秀吉の養子となり、ついで秀長の養子となった。10歳の頃、秀吉の命により、高虎の養子になる。関ヶ原の戦いには東軍に属し、功があった。
東福門院 とうふくもんいん  後水尾天皇の中宮。2代将軍秀忠の8女。政治上・経済上重要な京都との関係の緊密化のため、14歳で入内し、興子内親王(明正天皇)らを生んだ。朝幕関係の円滑化に貢献した。入内後は、一度も江戸には帰らなかった。
遠山 景任 とおやま かげとう  美濃国岩村城主。1570年(元亀元年)武田信玄信濃国高遠城秋山信友に岩村城を攻撃させた。景任は織田信長に救援を求め、信長の命により岩村城に入った明智光秀とともに戦うも、1572年(元亀3年)病没した。
遠山 坊丸 とおやま ぼうまる  後の織田勝長
土岐 定明 とき さだあき  土岐定政の父。
土岐 定政 とき さだまさ  =菅沼定政
土岐 頼芸 とき よりあき  西村勘九郎(後の斎藤道三)に擁立されて兄頼純を追い家督を継ぐ。1542年(天文11年)8月道三に攻められ尾張国に逃れ、1548年(天文17年)8月講和成立により帰国。1552年(天文21年)に再度追放され、越前国甲斐国・上総国を流浪。1582年(天正10年)稲葉一鉄に迎えられて美濃に戻るが、同年12月4日死去。
土岐 頼純 とき よりずみ  美濃守護大名。西村勘九郎(後の斎藤道三)に擁立された頼芸に追われ、越前国朝倉氏を頼る。織田・斎藤氏の講和成立により1547年(天文16年)美濃国大桑城に迎えられたが、同年11月17日死去。
徳川 家綱 とくがわ いえつな  江戸幕府4代将軍
徳川 家光 とくがわ いえみつ  江戸幕府3代将軍。
徳川 家康 とくがわ いえやす  江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。三河国が弱国だった頃に生まれ、幼いころから今川氏へ人質と出される。桶狭間の合戦により今川義元が敗死すると、今川家より独立する。独立後織田信長と同盟を結び、信長と共に天下統一に邁進する。本能寺の変後、一時豊臣秀吉と対立姿勢をとるが、時代の流れをよみ、秀吉に臣従する。秀吉死後、関ヶ原の戦いにおいて見事勝利をおさめ、天下を名実ともに手にいれる。その後、江戸に幕府を築き200年以上にも及ぶ平和の世の基礎を築く。
徳川 和子 とくがわ かずこ  =東福門院。
徳川 忠長 とくがわ ただなが  徳川秀忠の3男。家光と家督争いをするも敗れる。駿・遠・甲にて領地を与えられるも、家臣の不行跡を理由に改易され、1633年(寛永10年)配流地上野国高崎で自刃。享年28歳
徳川 秀忠 とくがわ ひでただ  江戸幕府2代将軍。徳川家康の3男。家康の長男信康が先に死に、また次男秀康豊臣秀吉、ついで結城晴朝の養子となったため継嗣として浮上した。関ヶ原の戦いの折、徳川家本隊を率いるも信濃国上田で真田氏の足止めをくらい、本戦に遅参するという大失態を演じた。このことから合戦には不向きだったようだが、内政面では家康の意図をよく守り、江戸幕府の基礎をさらに強化した。1623年(元和9年)家光に将軍職を譲り、大御所としてこれを後見。1632年(寛永9年)1月24日没する。
徳川 義直 とくがわ よしなお  徳川家康の9男。御三家の筆頭尾張徳川家の祖。
徳川 頼房 とくがわ よりふさ  徳川家康の11男。御三家の水戸徳川家の祖。
徳姫 とくひめ  五徳とも。織田信長の娘。1567年(永禄10年)徳川家康の長子信康に9歳で嫁ぐ。信康との間に2女もうける。1579年(天正7年)信康自害後は岡崎を去り、京都に住む。1636年(寛永13年)正月10日死去。享年78歳。
督姫 とくひめ  =崇源院
督姫 とくひめ  =良正院
戸部 政直 とべ まさなお  今川義元の家臣。尾張国戸部城主。夫人は義元の妹。戸部城は尾張国における今川方の重要な拠点であった。1557年(弘治3年)織田信長の謀略にかかり、義元の疑惑を受け殺害される。
富岡 重朝 とみおか しげとも  小山高朝の子。はじめ古河公方足利氏に属したが、1562年(永禄5年)上杉謙信の館林城攻めに加わり、1573年(天正元年)まで謙信に従い、その後は北条氏に従う。
富田 信高 とみだ のぶたか  1588年(天正16年)頃豊臣秀吉に仕え、関ヶ原合戦では東軍に属し、伊勢安濃津城に籠城するが毛利・長束軍の攻撃に降り、高野山に登る。戦後、徳川家康に召し出されて伊予宇和島12万石を領すが、のちに改易された。
豊臣 鶴松 とよとみ つるまつ   母は淀殿。捨丸と呼ばれた。わずか3歳で病死。
豊臣 秀勝
(羽柴 秀勝)
とよとみ ひでかつ  小吉。豊臣秀吉の甥で養子。父は三好吉房。母は秀吉の姉のとも(瑞龍院)。兄は関白秀次。弟は大和中納言秀保1585年(天正13年)に病死した、織田信長の子で秀吉の養子の於次秀勝の遺領丹波亀山城を継ぐ。1587年(天正15年)秀吉の九州平定に従軍し、戦後知行の不足を訴えたため秀吉の怒りに触れ所領を没収されたが、間もなく越前国敦賀城を与えられた。1590年(天正18年)小田原の役で武功をあげ、徳川家康の旧領のうち甲斐国信濃国を与えられ、甲府に移ったが、翌1591年(天正19年)には美濃国岐阜に転封された。1592年(文禄元年)朝鮮に出陣し、9月9日唐島(巨済島)で病死した。
豊臣 秀次 とよとみ ひでつぐ  豊臣秀吉の甥で養子。父は三好吉房。母は秀吉の姉のとも(瑞龍院)。賤ヶ岳の戦いでは功をたてたが、小牧・長久手の戦いでは大敗を喫した。1590年(天正18年)小田原の役に従軍し、北条氏の滅亡後、織田信雄の旧領尾張国および北伊勢5郡を領した。1591年(天正19年)秀吉の長男鶴松の死後、その養子となり関白となった。しかし、1593年(文禄2年)、秀吉に次男秀頼が生まれると、秀吉のため1595年(文禄4年)高野山に追放され、自殺を命ぜられ、7月15日に切腹した。
豊臣 秀長 とよとみ ひでなが  豊臣秀吉の異父弟。兄秀吉に従い各地を転戦。本能寺の変後、四国平定に大功をたて、大和国を与えられて郡山城主となり、秀吉の片腕として天下統一に貢献し、秀吉政権の公儀の統轄者となるが、1591年(天正19年)正月22日大和郡山城で病死。
豊臣 秀保 とよとみ ひでやす  豊臣秀長の養子。父は三好吉房1591年(天正19年)秀長の死去により家督を相続し、大和国郡山城主になる。藤堂高虎を後見役とした。文禄の役には藤堂高虎と共に肥前名護屋まで出陣。大和十津川で病死。一説に、十津川で入水、横死したとも伝えられる。
豊臣 秀吉 とよとみ ひでよし  百姓の倅で草履取りから織田信長に見出され、墨俣一夜城など勲功を重ねて、織田家中内で着実に出世し、中国方面の指揮官を任されるようになった。本能寺の変の折は中国大返しを敢行し、山崎の戦いにおいて明智光秀を破る。その後賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を固める。各地の大名を切り従えてみごと天下を統一する。 織田家臣団
豊臣 秀頼 とよとみ ひでより  豊臣秀吉の次男。母は秀吉の側室淀殿。秀吉の養子関白豊臣秀次の自刃により豊臣氏世嗣となる。関ヶ原の戦い以後は天下の実権を徳川家が掌握し、豊臣家は河内国・和泉国60余万石の大坂城主という一大名に転落する。その後徳川家康の孫千姫と結婚するも、大坂冬・夏の陣において敗北し、滅亡する。
豊臣 拾丸 とよとみ ひろいまる  =豊臣秀頼
鳥居 三左衛門 とりい さんざえもん  野田城攻めを行なっている際、笛の音に聞き惚れた武田信玄を狙撃した鉄砲の名手。
鳥居 強右衛門 とりい すねえもん  勝商。奥平家家臣。1575年(天正3年)奥平信昌長篠城主となったため、これに従い長篠城へ入る。しばらくして武田勝頼が長篠城を攻める。長篠城は籠城して武田軍に対抗するが、これ以上の抵抗が難しいと悟った城主信昌は鳥居強右衛門を救援の使者として徳川家康の元へ送る。その後織田信長に謁して援軍を送る約束を取り付ける。帰城のとき、武田方に捕まるが、援軍がくることを城内に知らせたため、磔刑に処せられる。しかし、この伝令が長篠城の籠城を成功させ、引いては長篠の戦いの織田・徳川連合軍の大勝利に大きく貢献することとなった。
鳥居 忠政 とりい ただまさ  鳥居元忠の2男。小牧・長久手の戦いに従い、関ヶ原の戦いの折には江戸城留守居番を勤める。父元忠が討死し、兄が早世していたため家督を相続する。大坂の陣では再び江戸城留守居番を勤める。
鳥居 元忠 とりい もとただ  徳川家康が人質時代からの臣。家康よりも3歳年上で、石田三成が挙兵したときに伏見城に籠り城を枕に討ち死にしている。
が更新箇所です。
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